imgres.jpg 伊豆半島ジオパーク構想

伊豆ジオパーク/大瀬崎:戸田エリア

大瀬崎/戸田
大瀬崎(おせざき)は、静岡県沼津市西浦江梨にある、伊豆半島の北西端から北へ駿河湾内に突き出した半島、または岬。琵琶島(びわしま)と呼ばれることがある。かつて海軍音響研究部大瀬崎実験所が設置されていた。伝承によると、白鳳13年(684年)に発生した大地震に伴って海底が突然「三百丈余」も隆起し、琵琶島(びわしま)として出現したのが始まりとされる。その後の砂洲の形成により陸繋島となり現在の姿となった。半島としての長さは1キロメートル弱、最も狭い部分の幅は100メートル足らずである。半島の東側は遠浅の砂浜を持つ湾を成しており、海流や波が少ない。一方西側は大きな石が堆積した海岸となっている。湾内の砂浜は1974年の七夕豪雨により失われたが、1977~82年に行われた養浜事業によって現在では砂利浜として整備されている。東側湾内から岬の先端を観る、後方に富士山が見える先端から300メートルほどの、標高10メートル余りの峰の上には引手力命神社(ひきてちからのみことじんじゃ、大瀬神社または大瀬明神と呼ばれることが多い)があり、崎のこれより先の部分は神社の境内地とされている。ここにはビャクシンの樹林と、これに囲まれた神池と呼ばれる、最長部の直径が100メートルほどの淡水池がある。半島の先端には伊豆大瀬埼灯台が建てられている。
「戸田村」
ヘダ号は、戸田村に感謝し命名された日露合同で造船された西洋式帆船の船名。1854年12月23日(嘉永7年11月4日)の安政東海地震によって伊豆半島は津波の被害にあった。こ時、ロシアの海軍中将であるエフィム・プチャーチンは日本との国交樹立交渉のため、フリゲート「ディアナ号」(2000トン級)にて来日し、下田に停泊していた。津波によりディアナ号は直撃を何度も受け、半日もの間激しく湾内を旋回した後、沈没は免れたが、大破した。ディアナ号は破損した船体を修復すべく、幕府の許しを得て、戸田村へ向かったが、航行中に強風と大波にあい1855年1月15日(安政元年11月27日)に田子の浦沖で座礁し、1855年1月19日(安政元年12月2日)に沈没する。幸いにプチャーチンと乗組員は、大地震の被災者でもある地元の人々の協力により救助され、宮島村(静岡県富士市)に上陸する。 プチャーチン使節団の応接掛であった川路聖謨も、ただちに救難対策を講じた。この時、ロシア人一行は、自身のおかれた状況も顧みず、献身的に救助してくれた地元の人々に対し大いに感謝したと伝わっている。日露和親条約締結後、プチャーチンは帰国ための船の建造を幕府に願い出る。その申し出は許可され、戸田村・牛ケ洞にて帆船の建造が始まる。日本人は官民合同で300人と、ロシア人500人の計800人に上り、日本史上初ともいえる日露合同の造船が行われた。日本人とロシア人の言葉の壁や、西洋式の帆船であるための資材の調達や専門技術者の不在など、数々の問題はあったが、日露双方が一丸になって取り組み、着工か3ヶ月という短期間で、2本のマストを備えた小さな帆船が竣工する。プチャーチンは、村民への感謝をこめてこれを「ヘダ号」と名付けた。「ヘダ号」は無事、ロシアのニコライエフスクまで航行し、プチャーチンたちは3年ぶりに祖国に帰還した。1856年(安政3年)9月に日露友好のシンボルとなった「ヘダ号」は日本に返還されるが、戊辰戦争の局面の箱館戦争で官軍に対し使用されたのを最後に、その記録は途絶えており、行く末の詳細は、わかっていない。戸田村では、ヘダ号の同型船である君沢形の量産が行われ、日本の造船技術の発展に大きく寄与した。