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マイケル・ライトマン
真正なカバラの教えを世界中に提供しているブネイ・バルーフ カバラ教育研究所の創設者及び所長。存在論の教授。哲学及びカバラ博士号取得者。メディカル・バイオ・サイバネティックス修士号取得者。三人の子供の父親そして三人の孫の祖父。

お互いの願望と共に生きる

質問:子供時代、私はロマンス(恋愛)小説が大好きでした。
その結果、私は理想的なロマンティックな関係の概念をつくりあげました。
大人に成長したとき、私はこの理想を実現させようと努力しましたが、いつも上手くいかなかったように思われます。
そのようなわけで、このかつて抱いた理想的な男女関係の形も、今や私が本当に必要なものとは何の関係もないものになりました。

答え:確かにその通りです。なぜなら、これらのロマンスは完全に空想的であり、真の内なるつながりを記述するものではないからです。
あなたの仕事の全ては、これらの偽りの形態やイメージから離れることでなければなりません。
「自然」は意図的に私達がこれらに占領されることを強いてきます。
それは私達が後に失望し、この嘘から逃れて、それを相対化することで、真の愛の見つけ方を発見するようになるためです。
さもなければ私達は真の愛を発見する可能性を持たないでしょう。
それまでの間は、私達は依然としてこの嘘に心を奪われ、空想の人工的なイメージに囚われ続けます。
そして私達がこの外部のクリパー(Klipa)から自分自身を洗浄し、徐々に私達の「真味」の純粋な自己、願望、性格を発見した後で、私達は真の内的なつながり(コネクション)を獲得します。
そこではもはやどんな恋に落ちることもありませんが、しかし、そこには真の愛があります。
なぜなら、お互いのスピリチュアルな特質に従って、私達は魂(ソウル)と魂(ソウル)をつなぐことを願うようになるからです。
その時、私達は、どのようにすればお互いに相互的に授与し、与え合うことが可能なのかを理解するでしょう。
私の幸福と感動の全ては、これによって支えられます。
つまり私はどうすれば妻を満たせるかを感じとり、そして彼女もまた私を満たしてくれます。
私達お互いが他者の内側に生きるようになるのです。

なぜ人々はセックスのことで頭がいっぱいなのか?

私が受けた質問:なぜ人々は非常にセックスのことで頭がいっぱいなのですか?

私の答え:魂は霊的な世界の中で光との“Zivug”(カップリング・交接、合併・結合)の状態にあります。
これは創造の二つの部分、男性と女性の和合であり、存在する最も大きな喜びをもたらします:魂を光で満たすことです。
物質界に於ける霊的な結合の原型は、肉体的な交接です。
その理由から、(異性に引きつけられること)が私達の世界における全ての願望と喜びのルーツ、基礎であると考えられていて、私達をとても夢中にさせるのです。
私達の世界に於ける性的な喜びは、霊的な結合と肉体的な結合の違いを見事に明示します。
人(男性)は、いつもセックスについて考えています。
そして自分を待つ大きな喜びを予想しますが、ピークの後、その満足感はすぐに消えてなくなります。
そして別の喜びの追求が再び始まるのです・・・。
なぜか? その理由は、光と願望がお互いを打ち消し合うからです。
言い換えると、プラスとマイナスがお互いを打ち消し合うように、光は願望を満たすことによって、喜びの感覚を中和してしまうのです。
そして、その両方の消滅が、二倍の虚無感(空しさ)に追いやります。
この理由から「死ぬことで、人は欲したものの半分さえも受け取ることはない」と書き記されているのです。
霊的な喜びは私達の内部で違うように働きます。
霊的な世界の中に居るということは、意図(スクリーン・膜)―他者(友人、クリエーター)に喜びをもたらす為に、願望(器、クリ-Kli)の中へ喜び(光)を受け取ることのできる能力―を有していることを意味します。
それにはクリエーターの特性―愛と授与の性質―を獲得することを要します。
そうすれば、人は霊的な交接、絶え間ない結合に到達します。
それは絶えず継続して激しくなり、永遠の命の感覚を人に与えるのです。
本質的に私達は皆、内面の奥深いところ、魂の中で、無意識にこの結合を切望しています。
私達はその為に創造されたのです。

愛は人生を飾り台無しにもする

私の妻は私の鏡です。結局、私はパートナーを決して見ません。
むしろ彼または彼女の中に、私の特質の反映を見ます。
例えば、私は中国で受け入れられている美の基準を理解しません。
私は真に美しいという評判を持っている女性を見て不思議に思います。
私なら彼女を美しいと呼ぶことはないでしょう。
私のセンスでは、彼女の顔は丸過ぎ、彼女の眼は狭過ぎ、彼女の髪はストレート過ぎです。私には全て魅力的には見えません。
しかし、かつて私は中国人記者による「ミス・アジア」国際美人コンテストについての記事を読んだ時、そこでは眼が大き過ぎるという理由で、中国ではその女性は勝利できないであろうと書かれていました。
私は、私達の美の知覚は何と異なるのだろうと、ただ唖然としました。全く逆なのです。
こういうわけで私達はお互いを理解することができません。
当然の結果として、私は目の前の女性を見て、全ての私の美に関するアイデアを彼女に投影します。
そして、もし私がそれらの上に上昇しないならば、それは私達の全ての関係に影響するでしょう。
私は彼女を、彼女の本当の特質と共に、ありのままに知覚しようとせず、彼女の中に私の特質、私のセンスの反映を見るでしょう。
人がある人物をバイアス無しに見るとき、彼または彼女が美しいかどうか決めることは全く不可能です。
どんな母親にでも聞いてみなさい、彼女は自分の子供以上にかわいい子供は世界にはいないと言うでしょう。
「愛は全ての罪を覆う」と言われている通りです。
そして反対に、私達のエゴ、憎しみは全ての美を損なうでしょう。
私が憎む人物は外観も耐えられないものになります。
そして客観的になって、私の基準に従って、彼や彼女が綺麗な顔に見えるということを認める準備ができても、私は別の理由でそれを憎んだりします。
人間だけがそのような態度を示します。
動物は美を見ません。動物は、それぞれの他の力を重んじます、生殖能力や、健康な子供を産み、彼らが独り立ちするまで育て上げることです。
しかしながら人間は、美の観念によって台無しにされます。
真実は、これは美ではなく私のエゴの実演です。
反対側(相手)に提示する特別な条件です。
それは物理的肉体の必要最小限の要求を超過しています。
もし私達がお互いを合理的に自然に見たならば、私は自分の前に健康的な力強い女性を見て、結婚しようと思うでしょう。
結局、私は彼女が家を良く保つだろうことを見ます。
過去において、人々はこの単純な利己的な原理に基いて伴侶を選んだものでした。
または社会的立場や富を検討に入れました。
人々は美には十分な注意を払いませんでした。
しかし単純な実際的な理由、すなわち人生にとって価値あるもの、に基いて伴侶を選択したものでした。
更にしばしば、若い人々ではなく、両親でさえカップルの相手選びや仲人役をしたものでした。
これは多くの文化で習慣となっていました。
また若い人々は助言を求めて、賢く尊敬されている人物の元へ向かったりしました。
そして私達の時代になって、私達は突如、特有なやり方で修正を行うように強いる、歪んだ状況に至っています。
今日私達はお互いを愛しているかどうかだけ考えます。
全ての映画はそのような愛についてだけ語ります。
以前はそのようなものではありませんでした。
私達は100年、200年前人々がどのように生きていたか理解しません。
愛や相互の魅力は視界にありませんでした。
性的魅力は役割を果たしましたが、それは今日の私達がいう愛の概念で意味するものではありません。
それはまさにごく最近に発達してきたものであり、私達の人生全体を台無しにしました。
それゆえ、もし私達がそれを正しく使用し、「愛で全ての罪を覆う」のならば、そしてもし私達が、他者を愛したり憎んだりする衝動を特定の方法で扱うならば、私達は成功するでしょう。

スピリチュアル・セックス

私が受けた質問:最初、アダムには1人の女性、イブしかいませんでした。是正したとき、私達は一夫一婦に戻るのでしょうか?それとも、是正された時には気にしないのでしょうか?

私の答え:私達の世界に於ける性的な結合は、スクリーン(膜)を用いる“Zivug de Hakaa“と呼ばれる、上層の光と魂の霊的な結合に由来します。
魂とクリエーター(Kliと光)の間にある、この霊的な結合において、クリエーターまたは光は授与をする男性の部分であり、魂またはKliは受け取りをする女性の部分です。
是正プロセスにおいて、魂(Kli)は授与の特性を獲得し、そのあとにそれは、クリエーター(光)の授与したいという願望を満たす為に光を受け入れる準備が整うのです。
結合のプロセス(合併、Zivug―霊的な交接)は、“もう一方のパートナーに喜びを与える程度にまでだけ喜びを感じたい”という願望と、“もう一方の人を喜びで満たしたい”という願望の両方からなる共通願望のなかで起きます。したがって、そこで起きることとは、共通願望と意図の絶え間ない比較(これはPartzufのTochの内部への受け入れの前に、そのRoshの中で行われる)であり、私達の生理に於いてでは、魂のなかへの(Kliの中への・PartzufのRoshからTochの中への)Hochmaの光(Ohr Pnimi、精子)の流出に先行する、性交の動きとして表現されます。
これらの交互に起こる進行的な互いの動きとは、接触を妨げては再開させることを手段に、それぞれの霊的なパートナーの中に完全なる願望をつくるためのものです。
これは健全な喜びの可能性を作り出します:このレベルが獲得されると、光はPehを通過しTochへと行きます―「矢が、望む場所において、望む女性のなかで、望む時間に、望む的に命中するように」とトーラーに記されているように、喜びが願望の中に入るのです。
したがって、人の魂が完全なる是正を獲得するとき、人はセックスを霊的な繋がりの生理的な表現として見なします。
そして、もし霊的な繋がりがないのなら、肉体的な繋がりの誘因または理由はありません。

スピリチュアリティ